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2011年12月14日 (水)

花は志ん朝

 たまたま時間つぶしに近隣の図書館に寄りました。「花は志ん朝」(大友浩・河出文庫)を手に取って読みました。芸談・芸の苦心を読むのが好きなのですが、この本は評伝でした。近くに過ごした人ならではのエピソード紹介があってよかったのですが評論寄りの部分もあります。わたしは評論を読むのが好きじゃないのです。この本は買わないでしょう。

 別に高尚な人間ではないので、ゴシップは嫌いじゃないです。それもどの芸人とどの芸人がどう関わったかというのを知るのが楽しい。先日、文化放送「天下たい平」でゲストの好楽の話を放送していました。時間いっぱいしゃべり続けで落語一席を放送しませんでした。話の中で、正蔵がどれだけ好きで弟子になったか、のちの師匠となった圓楽が自分の師匠、圓生の「中村仲蔵」ではなく正蔵のそれを継承し、圓生から「誰の弟子だ」と嫌味を言われたというのには耳をそばだてました。

 話がそれました。「花は志ん朝」で気になったのは「船徳」のなかの「舫う」という言葉がわかってもらえないのではないかと、そのあとに「船をつないで」とあえて言い換えたという点でした。落語の中の古くなった言葉をどうするかは落語家にとって大問題だろうし、噺が昔のままではいられない原因ですから、今度ほかの人がどうしているか調査してみましょう。

Hanashicho


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コメント

〉「船徳」のなかの「舫う」という言葉がわかってもらえないのではないかと

志ん朝師の船徳は何度も聴いているはずですが、その言い換えには気がつきませんでした。
もやうって言葉は私の携帯電話では漢字変換出来ませんし、自分でも恐らく使わない言葉です。
でも聴けば意味は分かりますから、古い言葉ではないイメージ。その一方で落語の中で「舟をつなぐ」といわれてもそんなに世界観を壊す感じもしないですね。
「もやう」ほうが雰囲気は良いと感じますが、「つなぐ」でも気にならない。

志ん朝師匠は言葉には相当のコダワリを持っていたと聞いた記憶は有りますので、ひっかかる言葉だったんでしょう。

言葉へのコダワリというと、上方落語になりますが松鶴師匠が「らくだ」の冒頭でらくだの兄貴分が使う「ごねる」「どぶさる」という言葉。
これは前後関係で察しは付くものの、現代では全く使われない言葉でしょう。
松鶴師はこれを何の説明もなく使うのですが、兄貴分の乱暴な性格が伝わってくるとともに噺の世界にグイッと引きずり込まれる重要な言葉と感じます。
観客に通じない語彙は避けるのが普通だと思いますが、ここはきっと松鶴師のこだわる言葉だったんだろうと思いますね。

投稿: nam | 2011年12月17日 (土) 16時18分

 ずっと、私も「言葉」を商売にしてきたので、いろいろ気にかかるところではあります。さすがに上方の言葉までは及びませんが、落語の評論を書けるほど知識もありませんし、言葉をどう使うか気付いたことを書いていきたいと思います。

投稿: snob | 2011年12月17日 (土) 16時41分

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