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2012年1月11日 (水)

落語の言語学「船徳」

 噺家の工夫はいろいろな演出になって現れます。しぐさや表情は昭和の名人たちのCDを聞くことではわかりません。独自のクスグリを加え、サゲや入れごとを変える演出もありますが、そういうことは評論家に任せて、「ことば」について考えています。 

 そこで、以前話題にした「舫う」の一件、調べてみました。志ん朝以前の大御所たちは躊躇なく「舫う」を使っています。
 徳三郎が舟をこぎだそうとして動かない場面。文楽「出るわけがねえじゃねえか。まだ舫ってあるよ」、可楽「いくらいきんだって、お前、舫いを解かずに竿はったって出やしないよ、舫いを」、小さん「寝ぼけちゃ困るぜ、おい。まだ舫ってあるじゃねえか」といった具合です。

 志ん朝は「何してんだよぉ、まだ繋いであるじゃねえか」「舫ってあるとなかなか船ってぇもんは出ねえもんで」と「舫う」を「繋ぐ」で補っています。

 「おい、何してんだよ。舫い、舫いが解いてない。縄を解くの。解かないうちはいくらやったって離れない」と「縄を解く」と馬生は言い換えています。兄弟で相談したりがあったのでしょうか。馬生も「船は出ないよ。舫いが解いてない、舫いが」「舫い…なるほど」という高座ものこしています。

 少し下の小三治は「ようようようよう、いくら突っ張らかったって出るわけねえよ、おい。まだ舫い解いてねえじゃねえか」と「舫ってある」を「舫いを解いてない」としています。

 「舫う」ははたしてどの年代までなら通じるのか。不明ですが、わかりづらい言葉であることは間違いないでしょう。でも全く使わず、全部「繋いである」に取り替えてしまうのも味がないと思うのです。「舫う」がわからないままでもキズにはならないと思いますが、話者は高座で「舫ってあるよ」でウケなければ工夫を考えるのでしょう。

 さて、時代が下がって、菊之丞の音源では「ようようって船出るわけねえじゃねえか。まだ舫ってあんじゃねえかよ」(略)「わかりました。この舫いを解いちまえば…」としています。さらに将来に「舫う」が残っていくのかどうか。

 言葉にこだわってみるわけ:
 「お見立て」について「落語ファン倶楽部」で、昇太が次のように書いています。「お見立てという言葉は死語なのでそれを使わずにワーッと盛り上がったなかで終わりたい」

 求めるものが異なるようです。

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コメント

せめて落語の中だけでも古い言葉が残って欲しいですね。
「舫う」「重宝」等時代を感じさせる言葉が噺の中に入っていると、我々観客もスムーズに噺に入っていけますね。

昇太さんは以前「古典の勉強をしなくて良かった」とハッキリ言っていた方ですので、古典の口調が身につくのがかなり嫌だったそうです。
ですので私は彼が演じる古典は古典と思っていません。
新作の延長だと思っています。面白いですけどね。
snobさんの仰っしゃる通り、「求めるものが異なるようです。」ですね。(^^)

投稿: hajime | 2012年1月12日 (木) 17時58分

 私も「人と同じじゃイヤ」という気持ちはよくわかります。でも誰かが古典の本道を守ってほしい。誰がこれからはその役をやってくれるのだろうと、楽しみに探しています。

投稿: snob | 2012年1月12日 (木) 21時30分

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