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2012年12月 3日 (月)

たばこと塩の博物館2

 対談のちょっと前に集合して、整理番号順に会場に入りました。

 この博物館と柳家小満んさんの出会いは、業者から持ち込まれた煙草入れ40点を購入した後、「文楽」の名を見つけ、鑑定を依頼したときだとのことです。
 のちに、「わが師、桂文楽」(平凡社・1996年)を上梓するときも岩崎主席学芸員が仲介したそうです。この書籍、図書館で読みました。すでに絶版(河出文庫で刊行中)ですが、博物館で買い取りをしたものが30冊ほど残っていて、今回の講演の前に「日々元日」の言葉とサインを入れてもらい、後で販売してました。

 小満んさんが入門前、文楽の会に10日間通い詰め、その時に舞台でちらと見えた煙草入れ。のちに文楽は収集を止め、真打昇進祝いなどに煙草入れをプレゼントし始めました。そのときの煙草入れが猛烈にほしかった。でも順番が回ってくる前に煙草入れはなくなる勘定でした。
 ある日、内弟子の小満んさんが文楽宛の”親展”封筒をおかみさんに差し出したところ、針と糸で封筒の底を開けて、女性からの慰謝料請求だとわかったそうです。その夜帰宅した文楽と悶着があったようで、後日、煙草入れコレクションをまとめて売ってその費用にあてました。余った分で指輪を買わされました。
 そのコレクションが、まわりまわって博物館に持ち込まれたのだそうです。…例の煙草入れが特別展の会場にあるので、「あれはあたしンです」。

 他に日々の生活や癖をあれこれ話したあと、落語研究会最後の高座の話題になりました。すでに体調の良くなかった文楽は、仕事をセーブしていましたが、「大仏餅」ならと受けました。いつも身支度を整えて、一度弟子の前でさらうのですが、前日の東横前にはさらったけれど、研究会の日にはそれをしなかったのは知られた話です。東横の高座のときに、
「失敗したらどうしよう」と不安でいましたが、「勉強をしなおしてまいります」というのはどうか?と弟子にたずね、「いいですね」「それでいきましょう」と平静を取り戻しました。そしてその日を迎えました。
 文楽の前に小満んは「宮戸川」をやりましたが、帰りの車の中では自分のことはいわず、「お前の『宮戸川』はよくなりますよ」といってくれたそうです。文楽も「『宮戸川』をやりたかったが、あたしには『明烏』がありますから」。で、温めていた「宮戸川」のクスグリを教えてくれました。

 最後に質問を許されましたが、質問したのは私だけでした。小さんの話題はたくさん出たので、「文楽からみた志ん生・三木助・圓生」を尋ねました。

 志ん生は、一番仲が良かった。あるとき二人で飲むことになって、文楽は酒を用意し、志ん生がつまみを用意するのになかなか帰ってこない。ようやく戻ってくると買ってきたのは塩豆。それを湯でもどしてしょうゆをかけて、「旨いだろ?」と。貧しい中での工夫に感嘆したと小満んさんに話しました。

 三木助は、柳橋門下から協会を越えて移ってきましたが、大好きな文楽にも芸では口答えもしたそうです。あるとき、一門の前で文楽が「芝浜」を演じると、金を拾った喜びはそんなもんじゃない、と批判しました。博打で儲けた時の気持ちでやらなきゃ。
 すぐあと、三木助が「芝浜」を完成させて、高座を見た文楽は「富士山は一夜にしてできたというけれど、そのとおりだ」と感心しました。そして自分の「芝浜」は封じました。

 圓生との二人会の誘いはとても嫌がりました。「同じ色がふた色あってもしょうがない」と、芸風の相似を認識していました。「このごろは上手くなってきた」と上から目線でしたが評価していたそうです。「四宿の屁」なんかが気に入ってました。
 志ん生・圓生が満州で行方不明だったとき、志ん生の家族・弟子も面倒を見ましたが、圓生の家族にも気を配っていて、圓生のおかみさんは「文楽さんを頼りなさい」と長男に言いきかせていたそうです。

 「おまえが文楽を継いで、あたしは文翁になって二人会をやろう」とかわいがられた、小満んさんは明けて、3月にここで落語会を開きます。

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