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2013年1月22日 (火)

柳田格之進(3)

 ご理解いただきたいのは、私のスタンスは「落語はあまり変えないで継承してほしい」です。

 ただし、落語の寿命は長いものですから、時代に合わないので理解しやすくする。パフォーマーとして他の演者との差別化も宿命なので自分なりに解釈する、のはやむをえません。

 「藪入り」の”お釜さま”のサゲや、「三十石」の”権兵衛蒟蒻しんどがり”はなくなって当然でしょう。金馬の”チュウのおかげ”はそろそろ寿命かなと思います。小三治は”ネコババ”にかえましたし、現圓楽は”ネコをかぶる”にしましたが定着したわけではありません。(でもネズミの懸賞金という設定は、仕込んだ上で残しています)
 でも”お見立て”という言葉自体が死語だから使いたくない、というのは大反対。廓でお見立てをしたという仕込を入れて残してほしいです。

 「柳田」も、もともと「身請けをしなかったが、それは武家には戻ることは許されなかったから」と脳内設定をして自分を納得させていました。身請けについてあれこれ言う必要はない、という意見です。身請け不可も時代の味。
 でもざっとウエブ内を見渡すだけで、身請けなしは理解不能という意見が多くあるのも事実ですし、たくさんの噺家が試行錯誤しています。

 「柳田」の噺は志ん生を経由して現代に伝わりました。あらためて聞くと、最後に「親子の縁を切ったから俺の娘ではない、好きにいたせ」と言っているではありませんか。だから身請けは慮外だということです。
 志ん朝では、柳田は娘に斬れなかったことを詫びますが、身請けしないことはまったくふれません。現代娘なら「冗談じゃないわよ!」で笑いを取っています。
 馬生は、身請けをしたけれど白髪の老婆のような姿で言葉も出せない廃人となったので、二人を斬る、という設定です。身請けしないのはおかしいという判断でしょう
 さん喬もそれに倣っています。でもこのやり方はどうも受け入れられません。病気にかかるならともかく、覚悟して身を売って廃人はないだろうと。
 志の輔の場合、柳田は身請けした娘を連れて店に行き、碁盤を斬ったとき娘が許します。最近構成が変わったという話もブログにありました。
 小満んが、身を売ったが見世にでる前に帰参がかなって身請けしたとする情報も。音源があるかどうか。生志は自分のブログで大幅に変えたとだけ報告しています。
 圓楽のはまだ聞いてませんが、いろいろですね。

 というわけで、私の結論。今回の原話を生かして、「柳田は身請けしようとしたが、娘のほうから柳田の武家に戻れる体ではないと断る」一言を入れれば、いいような気がします。(町家はOK)

 それはそれで、「断るなんて理解できない」ってことになるかもしれませんが。


※その後、圓楽のものを聞きました。前半の語りの迫力が半ばを過ぎて間合いが崩れていたと感じました。彼の展開では、柳田が番頭と再会した時に娘の身の上を打ち明けて、萬屋に行ったときには身請けをされて連れてこられていました。
 主従の思いに打たれて碁盤を切って許したあと、引きあわされて、番頭との婚礼を求められます。そして子供のない萬屋の夫婦養子になります。

※再放送で志ん輔の柳田を確認しました。帰参と同時に娘を見受けし、仏門に入ったという設定でした。娘に幸せはやってきません。

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コメント

娘が身を売って得た50両が多すぎるからと14両に変更してリアリティを求める噺家は居ないでしょうし、ソコに文句をいう落語ファンも居ないでしょう。
歴史研究家でも目くじらを立てる人はまず居ない。

ただし、身を売った娘の扱いは現代の観客には合点がいかないと感じる人が少なからず居ると思います。
主家帰参がかなっても娘を身請けしないのはなぜか、番頭と添い遂げるのに抵抗が無かったのか…。そういった合点のいかないところがあると落語というファンタジーに浸ることができなくなるんですよね。
どうでも良いネタなら時代とともに淘汰されれば良いのかもしれないですが、柳田格之進は武士の矜持といったあたりが素晴らしいので、なんとか工夫したいと考えるのは自然ですよね。

というわけで、私は古典落語ネタの改変には寛容です。
改変によって、噺の世界観を壊さない様な注意は必要だとは思いますが。

投稿: nam | 2013年1月22日 (火) 12時51分

>番頭との結婚
 これも引っかかる人は多いようです。元話にないので後味をよくする入れごとですが、結婚の自由がない時代なので私は通り過ぎちゃいます。

 噺の中で触れる必要は全くないですが、柳田が奉行所を嫌がったのも、当時であれば自然です。あらかたが当事者の内済でおわり、奉行所に持ち込まれた時点で名は地に落ちる。

 そんな背景を思うだけで、私は志ん生流で満足です。志ん朝もOK

投稿: snob | 2013年1月22日 (火) 13時18分

 落語の時代設定やその風俗が現代人には判らないと云うのなら、時代を現代に設定してやればいいんだと思います。「時そば」は時間や値段の関係で江戸時代の設定。「うどん屋」はそれらの束縛がないので江戸時代ではなく明治以降の設定ですね。
 
 落語はそもそも明治期以降を除くと、誰かが作ったと云うのは正確ではなくて、もちろん誰かが作ったあとに伝承で伝えてきた物で、マイナーアレンジは幾らでもあるんだと思います。現代にまで伝わっているものは、それだけの年月を経て支持されてきたものなので、現代の噺家ごときが変えるべきではないと思います。

 ベートーベンが作曲した音符を変えたら、もはやそれはベートーベンの作品ではありません。ですからベートーベンが作曲した音符が気に入らないんだったら、自分で新曲を作ればいいんです。

投稿: 藪井竹庵 | 2013年1月22日 (火) 21時32分

あたりまえですが、その長い年月を生きのびてきた噺のほうがおもしろいです。噺家さんにはそれを大切にして語り継いでもらいたいものです。

投稿: snob | 2013年1月22日 (火) 23時47分

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