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2013年5月 3日 (金)

母と子~江戸時代漫筆

 学校という職場は、家庭と大きくかかわります。親の行動が子供に大きく影響するのを多々見てきました。
 両親のそろわぬ家庭も少なくありません。死別も離別も。ずっと受け持ってきた母と娘の家庭が思春期を迎えて変化したことがありました。学校に黒いブラをつけて登校するようになり、しばらくして家出をしました。しかし非行に走ったわけではなく、幼いころ別れた父親のもとに駆け込んだのでした。その父親が面談に現れて事情が分かりました。父親には新しい家庭があり、やがては元に戻ってきました…。

 Wikiの「子別れ」の記事を読むと、柳派のそれに対抗して、圓朝が「女の子別れ」と題して演じたとあります。離婚した後、男子は父親につくという当時の慣例によったそうです。

 「江戸時代漫筆」第6巻の「江戸の離婚」は前半では三行半といわれる離縁状、後半を江戸時代を通して縁切り寺の地位を保った鎌倉東慶寺についての記述です。

 それによると、妊娠中の離婚後、できたこどもは父親に戻すというようなしきたりでした。三か月を過ぎても妊娠の報告がない場合は、戻さなくともよい。
 やはり女性個人の経済力の問題は大きかったでしょうし。武家や商家では跡取りの男子の重要性があったでしょう。

 しかし、離縁状の中に子供は妻が引き取り、夫側は養育に口を出さないという一筆のあるものも結構あるのだそう。
 江戸時代においても母親についていくことは許されないことではなかったんですね。長屋住まいの職人に家の跡継ぎもないでしょう。

 経済力の劣る母親が引き取って、生活に苦労し、近所の子にたたかれても世話になっているために我慢を強いられる。
 酒癖の悪い父親のもとに残るも、女郎上がりの継母に煙管ではたかれ告げ口すると父親にはゲンコツ、出ていった母親を恨む。

 どちらのバージョンでも子供は、苦労させられます。学校で出会ったのは母子家庭が圧倒的に多い。今残る「子別れ」は明治の生活が背景です。この場合は父親が有責配偶者ですから、女性が引き取る形の噺が受け入れられて残っているのでしょう。

 「江戸時代漫筆」は近隣の図書館に5冊しかなく、あと2冊を県立図書館から配送するリクエストをしているところです。

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コメント

 圓朝は「子別れ」を「女の子別れ」に改作して、だらしない亭主に愛想が尽きた母親が父親の元に子供を残して一人で出て行くようにしました。私は松鶴の音を聴いて、なるほどその方が理に適っていると思いました。

 と云うのは、裁縫をしていた女房が何故咄嗟に金槌を取り出せるのか・・・ってところに疑問が残るんです。それに素手でぶつ振りをすればいい訳で、わざわざ金槌を取り出すのはあまりにも不自然です。

 「女の子別れ」では、大工の亭主は休みの日でも子供の学費などを稼ぐ為に箱を作る内職をしていて、手に金槌を持っています。そこへ子供が帰ってきて金の出所を尋ねても云わないから、既に手に持っている金槌でぶとうとするんです。それならば「子は鎹」のサゲに持って行くために「金槌でぶつ」と云うのが不自然ではないんです。

 「女の子別れ」は東京では圓朝しかやらなかったので廃れましたが、圓朝の弟子の二代目 圓馬が上方に拠点を移して「女の子別れ」をやったので、圓朝の改作版は上方に伝えられました。残念ながら現在は東西共に不自然な「子別れ」をやってます。松鶴の音源だけが唯一残ってるものだと思われます。
http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/63106633.html

投稿: 藪井竹庵 | 2013年5月 6日 (月) 09時21分

>不自然

 マ、落語のことですから…。などとは言いません。落語で引っかかるところを出発点をして、私もできる範囲で調べまわります。

 現在では離婚調停で「子供は母親が親権を持つもの」と決めつける調停員もいるそうです。もはや「女の子別れ」はその噺の根本で受け入れられないのではないかと思います。

 今の目から見ると「女の子別れ」は成立の経緯が二番煎じのようにも思えます。それだけ柳枝のものが、金槌の件の傷を補うのに余りあったのでしょう。圓朝ともあろう人が柳枝の筋をパクるとは。弟子の圓馬ではなく聴衆がどう見たか評判を知りたいところです。

投稿: snob | 2013年5月 6日 (月) 10時25分

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