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2016年7月29日 (金)

向島の開発~すみだ郷土文化資料館

向島の名称について気になったので、ちょうど地元の資料館で展示していた「すみだの開発」展に行きました。7/31まで。あと数日です。   
Sumidakaihatu

この資料館、もともと1Fは常設で墨田の歴史を概説しています。梅若伝説や業平の伝説ではじまり、古代の道、江戸時代、近代とコンパクトにまとめてあります。    
ここには隅田や寺島などの地名が引用されていますが、向島はありません。実は「向島」は行政が管理する地名ではないのです。正式記録にあらわれるのは明治になって向島区として統合されたときです。   
でも江戸時代に使われなかったわけではありません。たとえば江戸切絵図ではこのあたりは「隅田川向島」のタイトルにまとめられています。(嘉永~安政)   
   
さて、3Fの企画展「すみだの開発」によると、隅田川の大堤は江戸の早いうちに築かれたようです(延宝年間の地図に記載)。それも隅田川の向島側。そちらには将軍の休息所もあったことと、向島を農地として開発する目的があったのです。つまり浅草側に氾濫させるようにできていました。日本堤と隅田川の間の橋場とか石浜に水を溢れさせました。   
ただし、現在の堤防のようなわけにはいかず、何度も向島・本所も水害に見舞われ、明暦大火後の両国橋架橋によって、市街地化された本所は洪水後にいったん撤退・武家屋敷も上知(あげち)されます。   
その後、綱吉の時代に人口の拡大で再開発が始まり、館林時代の家臣たちの屋敷が作られ、道路も盛り土しました。   
   
老眼鏡で壁面に拡大されたいくつかの時代の「江戸大絵図」やその他の資料を覗きこみましたが、「向島」の記載は公的資料だからか、見つかりません。   
せっかくの資料館なので、質問してみました。館内電話で学芸員の方にお話をうかがったのですが、いつ俗称「向島」が使われるようになったかははっきりしないそうです。墨田区の学芸員が知らないなら知る人はいないでしょう。   
遡っても江戸後期、せいぜい19世紀までではないかとのこと。人が集まる地域になる前、江戸初期には(証明不可能だけど)使われなかったと考えていると。   
やはり日本堤と向島の名前の関連は薄そうです。   
   
「向島」は切絵図以外にも浮世絵のタイトルとしても使用されています。広重の江戸自慢三十六興シリーズの「向島堤の花並びに桜餅」(1864)は墨堤の山本やの壁にも貼り付けられています。
Mukojimasakuramochi 国会図書館ライブラリ    
他にも料亭が「向島大七」「向島武蔵屋」として錦絵に描かれてもいます。(弘化年間)   
「いつから」を調査した人はいない、というのは意外でした。でも絵とか本とかを調べて文字を拾う作業は気が遠くなりそうです。   

なお、資料館ではもうひとつの特集展「隅田川花火の400年」も2Fで開催中。こちらは8/21まで。
Sumidahanabi400

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